講師 岡橋清隆
KIYOTAKA OKAHASHI 1952年生まれ。吉野林業の5大林家の一つ岡橋家の次男として生まれる。大橋慶三郎さんから兄の清元さんと共に道づくりを実践的に学ぶ。岡橋家の山に、自ら2トントラックで搬出できる作業道を開設した。2016年下北山村が自伐型林業を始める準備段階から講師として来村、初期の協力隊の指導にあたる。今も年に1度は来村し、協力隊に直接指導する機会をつくっている。現在、自伐型林業を志す若者からの相談・依頼が多く、道づくりの指導に全国を飛び回っている。
清隆さんの若かりし頃を教えてもらいました
就職した頃のこと
大学を卒業して大阪の中堅・金物問屋で、営業として3年10ヶ月ほど働いていました。初めて会う人と話すのが苦手だったので向いてなかったです。数字に弱く、勤務地が東京だったので辛かったですね。その後、親父が昭和25年に設立した清光林業株式会社(大阪の堀江で原木丸太を売る会社)に就職しました。僕の兄が、岐阜の石原林材へ修行に行き、作業道を使って木を搬出することを経験して帰ってきました。それを清光林業でやろうとしましたが、いろいろな方からアドバイスを受けて、新しい会社を作ってやるのが良いのではと、昭和53年に岡橋林業を設立しました。吉野町の吉野川のほとりで、土場を開いて、セリができる原木市場を始めました。昭和54年7月初市を迎え、非常に高い値段で原木が売れて驚きました。
道づくりを始めた頃のこと
清光林業には、上北山村に800町歩*の山があったので、そこで作業道を使って近代的な林業をやりたかったんです。昭和54年10月1日に作業道をつけようと決めました。ただ、自分達ではできないので、最初は土木の方に施業してもらったのですが、土質、路線が悪くて、道が壊れてしまいました。壊れたままにはできない、修復しなくちゃいけないと、奈良県の林業試験場に相談したら、大橋慶三郎さんを紹介してくれました。大橋さんからは「どうせ、遊びでやっているんだろう」と最初は断られて相手にしてもらえませんでした。どうしたら山を見ていただけるのか?なんとか教えていただきたい!と申し出ました。すると大橋さんに会いにいった兄が「西吉野のとなり山本本家の山に、道をつけるからくるか?」と言われました。「すごい人がおんねん!」と興奮して帰ってきました。「来月から山本さんの山に行ってくるわ!」と、兄はしばらく寒い寒い中、1ヶ月ほど行っていたと思います。
やっと、大橋さんに上北山村の山を見に来てもらえることになりました。昭和55年2月に初めてお会いして、とても緊張したのを覚えています。山に一緒に行ってくれて「素人が手を出したらえらい目に遭うで」と言われ始まりました。「修復するのに誰にやってもらうんだ?」と聞かれて、最初は日当でやってもらったのですが、お金がかかりすぎたのでしばらくやめていました。大橋さんから「あんたらの立場があるから、修復はせなあかんやろな。路線が悪いところを通っている。修復しても10年もたへんよ。それでもいいか?」と言われました。「わかりました」と返事をして、再び道づくりが始まりました。今でも使うことができる、頂上まで行く道をこの時につくりました。上北山村では、その頃はブルトーザーでつくっていました。大橋さんに最初「ユンボはあかん」といわれていましたが、ミニユンボを使ってみたら「使えるな!」となり、兄と作業道講師として活躍している野村さんと3人で、ユンボに乗って、道づくりを始めました。
*町歩 ≒ ヘクタール=10000㎡
さて、下北山村との関わりからお聞きしました。
下北山村に来られたきっかけは?
2016年、自伐型林業推進協会から紹介されて、下北山村役場の北さんに呼ばれてきました。寺垣内の山、滝ノ谷に作業道をつけるために初めて踏査をしました。北さんと自伐型林業推進協会、事務局長の上垣さんと何度も滝ノ谷を上り下りしました。この年から地域おこし協力隊の指導にあたりました。村での自伐型林業研修はコモ谷にある村有林を使って行いましたが、寒かったですね。(笑)
清隆さんと役場の北さん 踏査をしている時に地図を確認しているところ
下北山村の山を見て、どう思いますか?
一番難しい、と思います。作業道をつけれる山は少ないと北さんにも最初に言いました。今、見ても、どこでもいけるとは言えないです。林内車、架線を利用するために、道をつけるやり方など、下北山村はここ独自のやり方をやってもいいと思います。バイオマスも遠いので、全て2トンダンプが入る道は無理なので、林内車や3トンクラスのフォーワーダーで出材し、土場で大型に積みかえて出荷する方法も考慮すべきと思います。熊野原木市場が近いのはメリットですね。いろいろな意味で、知恵を絞るからいいんじゃないかと思います。村の中で、小さなバイオマスをやるなど、売電目的ではないものが良いのではないかと思います。
地域おこし協力隊、OBをそばで見ていて、思うことはありますか?
逆に安井さんに聞いてみたいですね(笑)下北山村から場所を変えようとか思わないのか?これからどうやっていくのか?と思いますね。最近は、協力隊に対して副業をしたら?などと無責任なことは言えなくなってきました。でも、林業だけでやっていくのはしんどいと思います。林業というのは、通勤時間が2、3時間と長いのが特徴的です。村に限らず、紀伊半島、吉野郡ととらえたら、ある程度のことはできるかと思います。経営を考えると、作業道を作っていて何が大変かというと、機械の維持・償却(ユンボや2トントラックなど)が大変で難しいと思いますね。農業と比べて時間的には余裕はあるかと思いますが。
清隆さんと協力隊OB 森のびの安井さん
今現在、地域おこし協力隊を卒業して、独立して元気がいいのは全国的にも高知県佐川町だと思います。佐川町は役場の強力なバックアップがあります。島根県津和野町は、卒業しても町の支援があると聞いています。林業の場合は、ベーシックインカム*の考えが向いていると思います。10年前だとこの考えは理解されにくいことだったかもしれませんが、今は林業や漁業などは収入がすごく不安定なのでベーシックインカムも考えても良いかと思いますね。その義務は?と聞かれたら、社会的な貢献をふまえて「防災・自然を保全・保護する林業に携わること」そして、いただくだけの知識や技術はいるとは思います。世の中的も、ベーシックインカムならば、経済的にも余裕が生まれて循環するように思いますね。
*ベーシックインカムとは、年齢、性別、所得水準などに関係なく、すべての国民や市民に一律の金額を恒久的に支給する基本生活保障制度のこと。
清隆さんと森のび安井さんと協力隊谷内さん
息子さんの岡橋一嘉さんが道づくりを始めた頃のこと、同じ業界にいることをどのように思っているか教えてもらえますか?
一嘉から、「就職先が決まったが条件が違うこと言われた」と聞きました。だったらそこに就職せずに清光林業(株)に入ったらと言いました。彼もデスクワークがあまり得意な方じゃないし、営業も向いていると思えないし(笑)清光林業に入って道づくりをはじめて、いやがらんとやっていたので、今の仕事が一番向いているのかなと思いますね。機械を乗るのも、トラックの運転もうまくできるのでやっていけるかなと思いました。これから中途半端な仕事するより、自分の能力を今の仕事なら発揮できると思いました。彼は会社を大きくしようとか、大それたことは考えてへんと思いますわ(笑)独立して、休日でも晴れたら仕事に行ったりしているし、コツコツと楽しくやっていていいと思います。
2019年より下北山村森づくり協力隊・人材育成の為1年通して講師を務める岡橋一嘉さん
間伐、選木で大事にしていることは?
私たちの間伐の選木は、吉野材を育てる技術としての選木です。木目均一、伐り過ぎたらいけない。柾目が狂わないようにしなくてはならない。間伐は、木の葉っぱを増やし成長させるためではありますが、木目均一は何のためにやったか?その当時は、お酒を入れる樽丸のためでした、木目均一だから酒がもれなかった。そのため川上村では、吉野林業の中で先発林業で、密植で植えた背景があります。
現在、実際に山に行って山を見たら、ちゃんと植えて育てているところは少ないです。鹿の獣害も増えています。なぜ、密植がダメになってきたかというと、昔は切り捨てする細い木でも担いで持って帰ってきて化粧垂木にして売っていました。今はそういった小さな木は、需要もなく林内に切り捨てられたままになっているのが現状ですね。
踏査(とうさ)は作業道づくりの中で一番難しいと思うのですが、ポイント、大事にしなくてはいけないことはありますか?
最初に大橋慶三郎先生と山の踏査を一緒に歩いた時、自分にはできる、と思いました。そのあと、一番最初のところでヘアピンを作ろうと思って作っていたら「これはあかんで!」と言われました。「なんで?」と思ったがしばらくして、その理由がわかりました。最初の工法的なことは理解できている、ヘアピンはこういう風にせなあかんとか、ヘアピンをつける場所はわかる。でもそれだけではなかったんですね。大橋先生が来たら、あとをついて歩くのが楽しく、自分の予測と大橋さんのいうルートが合うと「やった!」と思いました。あの頃は、月に一度は必ず山を一緒に歩いた。それはいい経験になっていると思います。
最近、自分の路線はひねくり回しすぎかなと思ったりもします。もっと素直に作るべきじゃないかとか。全国に踏査をしにあちこちに行っていて、ここは人に見せたいなと思う「踏査した道」は何個かはあります。でも逆に失敗しているものもあります。今は、誰が作っても、ヘアピンなど綺麗にまわれるようにしなくてはいけないと、わかってきました。
大橋先生は、車に乗っても、飛行機に乗っても、窓から山を見て道を付けれるルートを見ていました。一時、僕も道に没頭していたので、つい山を見ては「あそこに道をつけて入り口がここで・・・」というように見てしまいます。(笑)
下北山村で最初に道づくりを始めた滝ノ谷の現場
この山(滝ノ谷)を初めて見せてもらった時、鉄塔まで上がれば奥の村有林までいけると北さんに話しました。まずは鉄塔を目指したら良いと。そして、見て歩くこと。
作業道をつける山を向かい側から見ること。じっと見ていると尾根が立体視できてきます。杉が生えているなー、杉と檜があるなーとか、葉っぱの色が薄いのは土が硬いということだなとか。遠くから見ておいて、鉄塔などの目印を覚えておいて、山の中に入ったときに目指すところ、鉄塔はどこだったか、地図を見せてもらい位置を確認します。
その頃はまだ最初からテープを巻いてましたが、今は、目印だけにして上まで行って、自分の上るルートを見て、ヘアピン、高さをチェックします。ここまで来たらいけるなと思ったら、路線を見ながら下っていきます。そしてまた確認しながら上り、下りてくる。僕と踏査をしたら2回は山を上る事になりますね。それが一番、自分の方法の中でも早いと思います。
でも、時に何度も上らなあかんときもありますね、失敗して。コツは一気に全部を見ないということです。大橋先生がよく言っていたのは、一緒に歩いてこの先も見るのかなと思うと「ここまで車でこれるようにしておいて、また来るわ」でした。2ヶ月後を目処に道づくりをしていると、問題が起きてくる。そんな時に来てもらったりしていました。先はわからないけれど、ここまで来たらいける、ここまで行かなくちゃってところを区切って、またスタートして隣の山などのことなども考えながら、見ていくような感じです。
踏査をしていて「この人は大丈夫、この人は時間かかる」というのは一緒に歩いたらわかりますね。先に歩いてもらうと、トンチンカンなところに行く人がいます。多分それは頭が整理できてないのだろうと思います。それと「自分で見る気持ち」が薄くて受け身なのかもしれません。この先生に見てもらわなくちゃいけない!と思い込んでいるのもあると思います。最初はそれでもいいですが、そのうちに踏査は自分で見れるようにならなくてはいけないです。
一方、すぐに理解する人もいますね(笑)そういう人は何かあった時やルートを変更した時に抵抗を感じるだろうと思います、なんであかんのかな?と思うでしょうね。でもそれはプロセスのうちで、たどり着く一つの道だとは思うから、いいんです。なんでもいい人は一番難しいですね。例えば「ここあかんで」というと「はい。ここ変えますー」ていう人は伸びがないと思います。どこが悪いんですか?問題は何ですか?と聞いて欲しいと思います。全国に行っていると、色々な人がいて面白いですし、皆さん一生懸命ですわ。
実践編としては、作業道づくりの経験者は闇雲に歩くのではなくて、大橋先生がやってきたように、ある程度地図を見る、どこに何があるか把握する、上るときに歩きやすいルートでいいから上る。そして、知識として、ユンボがここにのれるかどうかはわかるはず。岩がでたりしても、回避できるのかどうか、諦めなくてはいけないところとそうじゃないところがわかるはずです。そこが机上での設計とは明らかに違います。
自分の能力に自信を持って、山に上り観察して、チェックをしていく。スマホでできることもありますし、ある程度のところまで上って道をつける価値があるかを見る。わかるまで上り下りして、地域の山をやるのであれば、時間をかけて通う。1日で決めなくていいと思います。大橋先生はよく言ってましたが、結局、一番最初に見たルートが良かったりする(笑)直感もいりますね。どこか一箇所、危険な思いをする場合もあります。山の傾斜が、きつすぎるからこそいける場合もありますね。それは土質が硬い場合で、オールカットで時間もコストもかかりますが。
自伐型林業を目指す、若者たちについてはどう思いますか?
そんなに金は儲からないよと思います(笑)何割かはこだわりの強い人がいますね、皆伐が嫌だとか、環境問題から入る人もいます、そういう人は赤貧に耐えれるし、ポリシーがある。中には稼ぎたい人もいるとは思います。そこまで稼ぎたいと思わなくても生活があるので、家族がいたり、子供ができると教育でお金がいるので、顔つきが厳しくなっていきますね。それでも林業には、関わり続けてほしいと思います。
道づくりの魅力、道づくりをしてきてよかったと思うことは?
「楽しくて仕方ない」生活がかかってやっている人の前では言いにくいけど。下北山村で、ユンボさえ置いていてくれたら勝手に来て勝手にやっていたいですね(笑)みんな忙しくて揃わなくてもいいから俺1人で行かせてほしい!と思ったりもします。ほんまはこんな道にしたかったという道を作り直したり、信念を曲げた道もあるからやり直せるなら直したいと思いますね。大橋式作業道の一番の成功は、徳島県の橋本光治さんの山だと思います。お金をかけずにトラックを使い搬出する道を作ることで、大橋先生の考えは、橋本さんの山で世間に通用するという事になったと思いますね。吉野郡だと山が深いので、場所に応じて、やり方を変えなくてはいけないと思います。
清隆さんの夢は?
夢はもうないわーーー笑
夢というか、現実にしていかなくてはいけないと思っているのは、川上村で山守制度を復活させたいです。山守制度が好きなんですよ。昔は年頭の挨拶で、山守さんが集まってうちの親父が挨拶をした風景があって、それを一度やってみたいと思いますね。たくさんの山で生きている人がいて、皆んなで新年の挨拶をするのは子供の時から見てきたので。川上村を再生させてやっていけるようにしたいと思います。川上村では、2021年から地域おこし協力隊を育てていますが、独立してやれるようになってもらいたいです。下北山村の協力隊との交流もして、吉野郡という範囲で頑張ってくれたらと思います。
そのためには、山主との信頼関係をつくり、山自体の資産価値を高めなければなりません。木材生産もでき、山を持っている価値を上げていくには、作業道をつけること、山を便利にすることだと思います。山主の意見をまとめるなどしていかなくてはならない課題はあります。川上村には、在所と在所をつなぎ、災害起こった時に少しでも役に立てるような道をつける提案をしています。10年くらいはかかるかなと思いますね。
後記
下北山村での道づくりが始まって8年。少しずつでもコツコツと前に進んでいるのは、清隆さんのおかげだと思います。道には人の性格がそのまま出るわ!と笑って話し、何年経っても道への想いは変わらず、どんな人に対しても謙虚。清隆さんにまた教えてもらいたい、また会いたいと思うのは、全国の皆さんも同じかもしれません。今度はいつ来てもらえるか、楽しみです。
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